タモリが「いいとも」で残した名言とは!?数々の伝説も明らかに…
笑っていいともの名司会としておなじみだったタモリ。40年という芸歴の中でいいともの司会を担当していた期間はなんと30年。おそらくいいともは今後も伝説的な番組として後世に語り継がれていくことでしょう。
そんな濃い芸能生活を送ったタモリですが、数々の名言や伝説を残したことでも知られています。今回はその中でも代表的なものを紹介していきましょう。
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笑っていいとも名司会者、タモリが残した名言
タモリの代表的な名言を2つ紹介していきます。1つ目は「友達は必要ない」というものです。なんといいとも内でテレフォンショッキングというコーナーを持っていたにもかかわらず、「友達100人できるかなという歌が嫌い」ともいっていました。
確かに友達と集まってわいわいするのは楽しいことだ。しかし集団行動が当たり前のものになってしまうと、自分の世界がその集団の中だけで終わってしまいがち。
集団でいるよりも1人でいる方が可能性は広がっていくのである、という考えだそうです。それと同時に「ぼっち」や「便所飯」という言葉が表しているように、1人で行動している人間の価値が低く見られがちな風潮を嘆いていました。
そしてもう1つの名言は「やる気のあるものは去れ」というものです。タモリ曰く、やる気のあるやつは暑苦しい、やる気のあるやつは何でも自分の思い通りに進行させようとして、物事の中心にしか目がいかない。
そうすると視野が狭くなって、本当に面白いものを見逃してしまう。本当に面白いものはその周辺にあるのに。
司会業を30年間やったタモリの名言であると考えるとなかなか深いですね。確かにいいともの司会をしているときも、やる気満々という感じではなく、いい感じに脱力していました。
それにしても代表的な名言はどちらも「視野を広く持つ」ことを掲げています。噂によるとそれが人生を楽しむコツなのだとか。
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赤塚不二夫との伝説の数々
タモリはデビュー前から数々の伝説を残しています。とりわけ赤塚不二夫とのエピソードは今でも語り継がれるほどです。彼が亡くなった際、白紙の紙を見ながら弔辞を読み上げたという話はあまりにも有名でしょう。
彼らの関係はデビュー前までさかのぼります。タモリは高校時代からトランペットに打ち込んでいて、早稲田大学に入学後もモダン・ジャズ研究会に所属していました。
しかし当時の先輩に「マイルス・ディヴィルスのラッパは泣いているが、お前のラッパは笑っている」と指摘され、挫折してしまいます。その後は福岡に戻って、生命保険の営業や旅行代理店など職を転々とする日々。
そんな中福岡で行われたジャズコンサートのスタッフに大学の友人がいたことから、打ち上げに参加します。するとその打ち上げで「謎の外国語で会話する」というネタを披露し、ジャズバンドのメンバーたちを大爆笑させることに成功。一躍「伝説の男」としてバンドメンバーの中で忘れられない存在となるのです。
バンドメンバーが東京に帰った後も、「森田を呼ぶ会」が発足するほどで、たちまちタモリの噂は広まっていきます。そして、とうとう面白い人間がいるという噂を聞きつけた赤塚不二夫がタモリのもとを訪れる機会がやってきました。
そこでタモリの即興芸を見た赤塚はこれに一目ぼれ。自らの番組にタモリを出演させ、また当時住んでいたマンションをタモリの生活の場として提供して、東京に残らせました。
そこまでしてでもタモリという才能の塊を東京に引き止めたかったのです。これが伝説の始まりとなり、その後芸能界デビューしたタモリの活躍のほどは皆さんの知るところです。
たった1つの噂から、伝説的な司会者まで駆け上がった生涯。まさに人生何が起こるかわかりません。